不動産コンサルタント始末記
第2話 契約締結
あの電話から2週間ほどがたった。
その間も、吉田には権藤から再三の電話があり、源泉徴収票や住民票、印鑑証明書などの提出を求められ、言われるがまま従っていた。吉田は、ただ漠然とこのマンションの購入について結論付けてしまったことに、本当にこれでよいのかと考えては見たものの、その都度、厳格な両親に対し、俺も一人前にマンションを購入した、それも都心部に近い場所で不動産投資を行っている、という一種、見栄のような感情が正常な理性を失わせていた。また、権藤は吉田のために、一生懸命動いてくれているように見えたし、購入する物件は、権藤が売主を押さえて安く交渉してくれているから、購入するにしても決して損などする筈はなかった。吉田は、自分自身を納得させるように、購入に向けて走り出していた。
契約の前日、吉田は飛行機で羽田に向かい、空港では権藤が出迎えてくれた。中央出口を出たところで権藤が合図をすると、停車中のリムジンバスの合間から黒塗りのベンツが吉田の前に現れた。ベンツには初老の運転手がついており、権藤がすばやく後ろのドアを開け、吉田を助手席の後ろに座らせ、自分は助手席に座った。
「お疲れさまでした。」権藤は、振り返りながら言った。「今日は、俺のおごりで銀座に連れて行くから、楽しみにしててよ。」
権藤は中学の頃、ガキ大将の小間使いのような存在であり、どこか小狡い男であったが、久しぶりに会ったこの男は、どことなく貫禄があり、多少、昔の面影は残っているものの、ほぼ別人になっていた。吉田は、ベンツのリアシートにもたれ、頭の中では、こんなことはもう一生あり得ないだろうな、などと考えるのと同時に、母親に、今、ベンツのリアシートに乗車し、銀座に繰り出す光景を見せたい、などと考えていた。車中では、権藤が一方的に話をしていたが、およそ吉田には、耳にする内容が理解できなかった。
「この度は、ありがとうございます。」銀座の鮨屋に入り、先ほどのベンツの運転手が、吉田に名刺を差し出し、慇懃なあいさつをした。「社長の松本です。」
「あ、これは、どうも。」吉田は、少し呆気に取られた。「社長さんでしたか。」ベンツに乗り、銀座の一流の鮨屋で渡された代表取締役の名刺、そして慇懃な態度を見て、吉田はすっかり信用してしまった。社長が運転する車に社員の権藤が助手席に乗って、事務所には立ち寄らずに接待するというシチュエーションを考えれば、いかに小さい会社であるかが分かるのであるが、吉田には、既に疑う気持ちすら失っていった。
鮨屋では、築地から運ばれた新鮮な素材の、吉田が今まで食べたことのないような上等な寿司、石川県の山田錦を使った贅沢な純米大吟醸の酒を飲み、ほろ酔い気分になった後、高級クラブという、吉田には無縁と思える場所で女性の化粧の匂いを嗅いだ。松本は、慣れた口調でペースを崩すことはなかったが、権藤は酔って崩れ、悪ふざけをしていた。吉田は、どのように振舞ってよいか分からず、とりあえず松本を手本として振舞っていたが、両隣の女性には、不慣れな自分を見破られているのではないかと気が気ではなかった。それでも酔いは深まり、気がついた時には、ホテルのベットに横たわっていた。
翌日、昨日と同様に松本の運転するベンツに権藤が同行して、ホテルで待つ吉田を迎えにきた。その後、3人を乗せたベンツは都内の某都市銀行に向かい、吉田は応接室に通された。
「早速、手続きを行いたいと思います。」銀行員から指図されるまま、その銀行の普通預金口座を開設し、何枚かの書類に署名捺印をさせられた。これは、吉田自身が指定した銀行であり、島にある同じ銀行であった。
「この度は、ありがとうございました。」銀行員が書類をもって手続きに入ると同時に、違う男が吉田に声をかけてきた。差し出された名刺には、吉田の聞いたことのないファイナンス会社の名前が書いてあった。「こちらが金銭消費貸借契約書です。こちらにご署名、こちらにご捺印をお願いします。」あくまでも事務的な口調で吉田に言った。
契約書には、借入金額が3800万円との記載があり、金利も7%を超えていた。ここで初めて、買ったマンションっていくらなんだろう、と吉田は思ったが声には出さず、契約書の署名は吉田自身が行い、捺印は権藤が手際よく行った。
その後、この男を席から外させ「これ、契約書。ここにも、署名捺印して。」と権藤は言った。
そこに用意されていた2通の契約書には、既に売主欄に個人名で署名捺印がなされており、不思議なことに売買価格の欄には1通が3500万円、1通が2700万円と書いてあったように思えた。
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